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東京高等裁判所 平成7年(ネ)1474号 判決 1997年11月20日

控訴人

甲野花子

右訴訟代理人弁護士

中村れい子

高岡香

渡辺智子

被控訴人

清水建設株式会社

右代表者代表取締役

今村治輔

右訴訟代理人弁護士

中村文也

小林雅信

被控訴人

株式会社テクネット

右代表者代表取締役

郡公剛

右訴訟代理人弁護士

岡田暢雄

今西一男

山本正

右岡田暢雄訴訟復代理人弁護士

杉山憲広

被控訴人

乙川太郎

右訴訟代理人弁護士

三浦守正

主文

一  原判決中被控訴人株式会社テクネット及び被控訴人乙川太郎に関する部分を次のとおり変更する。

1  被控訴人株式会社テクネット及び被控訴人乙川太郎は、控訴人に対し、各自金二七五万円及びこれに対する平成四年八月七日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2  控訴人の被控訴人株式会社テクネット及び被控訴人乙川太郎に対するその余の請求を棄却する。

二  控訴人の被控訴人清水建設株式会社に対する控訴を棄却する。

三  訴訟費用中、控訴人と被控訴人株式会社テクネット及び被控訴人乙川太郎との間において生じたものは、第一、二審を通じ、これを二分し、その一を被控訴人株式会社テクネット及び被控訴人乙川太郎の、その余を控訴人の各負担とし、控訴人と被控訴人清水建設株式会社との間において生じた控訴費用は、控訴人の負担とする。

四  この判決は、第一項の1に限り、仮に執行することができる。

事実及び理由

第一  申立て

一  控訴人

1  原判決を取り消す。

2  被控訴人らは、控訴人に対し、各自金五五〇万円及びこれに対する平成四年八月七日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

3  被控訴人清水建設株式会社(以下「被控訴人清水建設」という。)及び被控訴人株式会社テクネット(以下「被控訴人テクネット」という。)は、控訴人に対し、連名で、朝日新聞、毎日新聞及び読売新聞の各朝刊社会面広告欄に二段抜きで、原判決別紙謝罪広告文案記載の謝罪広告を掲載せよ。

4  訴訟費用は、第一、二審とも被控訴人らの負担とする。

5  仮執行宣言

二  被控訴人ら

1  本件控訴を棄却する。

2  控訴費用は控訴人の負担とする。

第二  事案の概要

次のとおり付加、訂正するほか、原判決の事実及び理由第二に記載のとおりであるから、これを引用する。

一  原判決四頁初行から同九行目までを、次のように改める。

「本件は、被控訴人清水建設の子会社である被控訴人テクネットの横浜営業所に勤務していた控訴人が、被控訴人清水建設の社員であって被控訴人テクネットに出向していた横浜営業所長被控訴人乙川太郎(以下「被控訴人乙川」という。)から、職場において、肩、髪及び腰に触られたり、抱きついてわいせつな行為をされるなどいわゆるセクシュアル・ハラスメントの被害を受け、その後も同人から仕事上の嫌がらせを受けるなどし、被控訴人テクネット及び被控訴人清水建設がこれについて適切な措置を採らなかったため、控訴人は被控訴人テクネットを退職せざるを得なくなり、性的自由、働く権利を侵害され、名誉を毀損されたとして、被控訴人乙川に対し不法行為に基づく損害賠償を、また、被控訴人テクネット及び被控訴人清水建設に対し民法七一五条の使用者責任及び同被控訴人ら自身の不法行為に基づく損害賠償並びに不法行為(名誉毀損)を原因とする謝罪広告の掲載を、それぞれに求めた事案である。」

二  原判決五頁四行目の「被告乙川」の次に「(昭和一七年生まれ)」を同五行目の「出向し」の次に「ていた者であり」を加え、同行目から同六行目にかけての「九月に退職するまで、」を「七月まで、被控訴人テクネットの」に、同七行目の冒頭から「また」までを「の地位にあり」に、同八行目の「担当した者である」を「担当した。なお、被控訴人乙川は、平成四年九月、被控訴人テクネットに出向したまま、被控訴人清水建設を退職した」に改める。

三  原判決六頁三行目の次に、次のとおり加える。

「(1) 控訴人は、平成二年秋ころから、上司である被控訴人乙川から、次の①ないし④のとおり、継続的にセクシュアル・ハラスメントを受けた。」

四  原判決六頁四行目の「(1)」を「①」に、同五行目の「ロングヘア」を「長髪」に、同七行目の「(2)」を「②」に、同末行の「(3)」を「③」に改め、同七頁二行目冒頭に「被控訴人乙川による控訴人に対するセクシュアル・ハラスメントは、次第に悪質になり、」を加え、同四行目の「(4)」を「④」に改め、同八行目の末尾に「。」を加え、同九行目の「(5)」を「(2)」に、同九頁六行目の「漸く」を「ようやく」に、同七行目の「(6)」を「(3)」に改める。

五  原判決一〇頁六行目の「各事実」の次に「に係る行為」を加え、同七行目の「右各事実は、所謂」を「被控訴人乙川の右行為は、いわゆる」に、同一一頁四行目の「関する」を「係る」に改める。

六  原判決一二頁三行目及び同一三頁二行目の各「退社」を「退職」に、同一二頁四行目冒頭から同行目の「ものであり」までを「山下)は、被控訴人乙川によるセクシュアル・ハラスメントによって、控訴人が人格的尊厳を冒され、労務提供に重大な支障を来す事由が発生したことを知ったのであるから、控訴人の労務提供に支障がないように労働環境を改善するため、被控訴人乙川の配置転換、従業員に対する事実の公表等の適切な措置を採るべき注意義務があったのに、これを怠ったため、控訴人が退職せざるを得ない状況に至らせ、控訴人の働く権利を侵害したものであり」に改める。

七  原判決一三頁二行目の「侵害」を「毀損」に改め、同六行目の冒頭に「被控訴人清水建設と被控訴人テクネットとは、資本、労働力及び業務内容のいずれの点からも協同的一体関係にあるところ、」を加え、同行目から同七行目にかけての「出向していたのであるから」を「出向し、人事権は被控訴人清水建設が有し、その給与は被控訴人清水建設が額を決定して支払い、譴責より重い懲戒処分については被控訴人テクネットが被控訴人清水建設と協議の上決定することとされていたのであるから」に、同行目の「清水建設が」を「清水建設は」に、同行目から同八行目にかけての「指揮監督することも可能である。」を「指揮監督すべき立場にあった。」に改める。

八  原判決一三頁九行目の次に、次のとおり加える。

「(2)(民法七〇九条に基づく被控訴人清水建設自身の不法行為責任)

被控訴人清水建設は、被控訴人テクネットに出向している社員についても指揮監督すべき立場にあり、出向社員の一般的な職務上の非行については、被控訴人テクネットから被控訴人清水建設の権限ある担当者に報告させ、処分を行う体制を採っていた。したがって、被控訴人乙川によるセクシュアル・ハラスメントについても、被控訴人清水建設の権限ある担当者が知り得べきであり、被控訴人乙川に対する処分に関し、被控訴人テクネットにおいて配置転換を命ずることができない状況にあったならば、被控訴人清水建設が人事権に基づいて被控訴人テクネットに対する出向を解くべきであった。ところが、被控訴人清水建設は、被控訴人乙川によるセクシュアル・ハラスメントを放置し、控訴人が退職せざるを得ない状況に至らせたものであるから、被控訴人清水建設は、民法七〇九条に基づき不法行為責任を負う。」

九  原判決一三頁一〇行目の「(2)」を「(3)」に、同一四頁六行目の「退社」を「退職」に、同行目の「侵害」を「毀損」に改め、同八行目から九行目にかけての「被告テクネット」の次に「及び被控訴人清水建設」を加え、同一〇行目の「③」から「基づき、」までを削り、同一五頁二行目の「④」を「③」に改め、同一六頁二行目の「来たため」の次に「、」を加える。

一〇  原判決一八頁末行から同一九頁初行までを、次のように改める。

「(1) 第一ないし第六の各事実に係る被控訴人乙川の行為は、個人的な動機で、職務と何ら関係なく行われた行為であり、被控訴人テクネットの事業の執行を契機として行われたものではなく、その事業の執行と密接な関連を有するものではない。したがって、被控訴人乙川の右行為は、被控訴人テクネットの「事業の執行につき」行った「ものとはいえないから、被控訴人テクネットは、民法七一五条に基づく責任を負わない。」

一一  原判決二〇頁三行目の「あるところ、」から同七行目の「ものではない。」までを「ある。被控訴人乙川は、被控訴人清水建設の社員としての身分を有していたが、それは形式的なものに過ぎず、専ら被控訴人清水建設とは独立して経営されている被控訴人テクネットの業務執行に相当長期にわたって従事していたものであり、実質的に見て、被控訴人乙川に対する労務指揮権、業務命令権、配転命令権、人事権、懲戒権等は専ら被控訴人テクネットが有し、給与及び賞与もすべて被控訴人テクネットが負担していたのであるから、被控訴人乙川に対する被控訴人清水建設の指揮監督関係は休止状態にあり、同人に対する指揮監督権は形式上も実質上も被控訴人テクネットのみが有していた。」に、同二一頁二行目の「採る立場にはない。」から同四行目までを「採るべき立場にはなかった。仮に、被控訴人テクネットが出向社員の職務上の非行を認めたならば、まず被控訴人テクネットにおいて、右非行に関して、懲戒処分に付するのが相当か否かについて判断した上、被控訴人清水建設との協議を必要とする処分が相当であると判断したときに、初めて被控訴人清水建設に報告されるものである。本件においては、被控訴人テクネットの社長である山下が経営者としての判断により被控訴人乙川に対して被控訴人清水建設との協議を必要としない厳重注意という形の処分をした結果、被控訴人清水建設には報告がされなかったものであり、被控訴人清水建設の対応には何ら問題はなかった。また、被控訴人テクネットが被控訴人乙川を配置転換することができないという状況にもなかった。したがって、被控訴人清水建設は、何ら不法行為責任を負わないし、控訴人の名誉を毀損したものでもない。」に改める。

一二  原判決二一頁八行目から同二二頁二行目までを、次のように改める。

「1 第一ないし第六の各事実の存否及び被控訴人乙川による不法行為の成否(争点1)

2 被控訴人テクネットの使用者責任の存否(争点2)

3 被控訴人清水建設の使用者責任の存否(争点3)

4 被控訴人テクネットないし被控訴人清水建設による不法行為の成否(争点4)」

第三  当裁判所の判断

一  第一ないし第六の各事実の存否及び被控訴人乙川による不法行為の成否(争点1)について

1  第一ないし第四の各事実の存否について

(一) 前記第二の判示事実(争いのない事実)及び証拠(甲一二、甲一六の二、甲一七、二一、丙一、三、六、丁三(丙六、丁三につき、後記採用しない部分を除く。)、四、原審証人出頭、原審における控訴人本人、被控訴人乙川本人(後記採用しない部分を除く。)及び被控訴人テクネット代表者)を総合すると、以下の事実を認めることができる。

(1) 被控訴人テクネットの横浜営業所は、同被控訴人の機電事業部を兼ね、主に、反射鏡を使って太陽光を採り入れるための住宅設備関連の装置である商品名「ナチュライト」(被控訴人乙川はその開発に携わった者である。)の製作、営業及び施工を取り扱っていた。同営業所は、事務所(以下単に「事務所」という。)とサービスセンター(工場)(以下単に「サービスセンター」という。)とに別れており、事務所(横浜市南区睦町所在)は四階建てビルの二階にあり、サービスセンターはそこから徒歩二、三分の別の建物内にあった。

(2) 控訴人が被控訴人テクネットにアルバイトとして採用された平成二年五月当時、横浜営業所には営業所長被控訴人乙川のほか、菅野(ただし、同月、本社に異動)、立花、出頭及び森木の四名の従業員があり、同年一一月に神谷が入杜するとともに、被控訴人乙川の申請により控訴人が正社員として採用され、同年一二月に森木が退職した。このほか、学生アルバイトの林が働いていた。控訴人以外の者はいずれも男性であった。

(3) 右各人の担当職務は、営業所長の被控訴人乙川が営業及び総務、神谷が営業(営業課長)、立花が製作、出頭が施工、控訴人は一般事務及び製作補助(製品の出荷準備)であった。控訴人の勤務時間は午前八時三〇分から午後五時まで、休憩時間は午後零時から午後一時までで、事務所における一般事務の仕事とサービスセンターでの製作補助とは時間的に半分くらいずつであり、必要に応じて事務所にいたり、サービスセンターに行ったりしていた。控訴人以外の従業員は、営業、製作又は施工を担当していたため、事務所にいる時間は長くはなく、被控訴人乙川も外出することが多かったが、事務所で控訴人と被控訴人乙川とが二人きりになることもあった。

(4) 平成二年秋ころから、被控訴人乙川は、事務所で控訴人と二人きりになった際、控訴人の席の後ろを通る時に、ぽんと控訴人の肩を叩くようになり、次第に、肩に手を置いている時間が長くなり、肩を揉んだりし、また、控訴人の髪をなでたり、束ねたり、指ですくなどして、控訴人の髪に触るようになった(第一、第三の事実)。

(5) 同年一一月初めころ、控訴人は、実験用の大きな鏡を持ち上げた拍子に腰を痛めたことがあったが、被控訴人乙川は、「私の手は人の手より熱いんだよ。どう、良くなってきた。」と言いながら、控訴人の腰を触った(第二の事実)。

(6) 控訴人は、右(4)、(5)のような被控訴人乙川の行動に不快感を持ったが、同人には特に他意はなく、スキンシップとしてしているのかもしれないと思い、まさか職場に性的欲求を持ち込むとは思いもよらなかったので、当時としては同人に抗議しようとは考えず、抗議したこともなかった。そして、控訴人は、肩や髪に触られそうになったときはそれとなく椅子を引いたり、髪を結ぶようにしたりして対処していたが、被控訴人乙川の右行動は止まなかった。

(7) 平成三年二月六日、控訴人は、事務所において、被控訴人乙川から、接待のために新しい店を開拓したいので、付き合ってほしいと言われ、それまで二人だけで酒を飲みに行ったことはなかったため戸惑ったが、格別の理由もなく上司の誘いを断るのは良くないのではないかと思って了承し、控訴人の案内により、横浜市中区の関内駅周辺の居酒屋及びパブレストランの二軒で、二人で飲食した。午後九時過ぎころ、二軒目の店を出て二人で関内駅方向に向かって歩いている際に、被控訴人乙川は、「今日はどうもありがとうね。」と言いながら、控訴人の肩に手を回して抱き寄せるようにした(第四の事実)。控訴人は、不快に感じたが、「あっちが地下鉄の駅ですよ。」と言い、手に持っていたバッグを被控訴人乙川の側に持ち替えて、さり気なく被控訴人乙川の手を振りほどき、同人と別れて関内駅に向かった。

(8) 右(7)の誘いの約一週間後、控訴人は、被控訴人乙川から再び酒を飲みに行こうと誘われたが、控訴人は二人だけで行くのを避けるため、学生アルバイトの林を誘い、三人で飲みに行った。この日は、控訴人が被控訴人乙川から肩を抱き寄せられるようなことはなかった。

(二) 右認定に関し、原審における被控訴人乙川本人尋問の結果及び同人作成の陳述書(丁三)中には、被控訴人乙川は、横浜営業所において控訴人の肩、髪又は腰に触った事実はないし、平成三年二月六日に関内駅周辺の店を案内してもらい、帰り際に礼を言ったことはあるが、その際控訴人の肩を抱き寄せるようにした事実はないとする部分がある。

(1) しかしながら、右認定に沿う控訴人の供述内容(甲一二、原審における控訴人本人)は、被控訴人乙川が控訴人の肩及び髪に触ったという日時やその回数を逐一特定するものではないものの、被控訴人乙川の行為の内容やこれに対する控訴人の対応に関して十分に具体的である上、被控訴人乙川が控訴人の肩等に触るのは、事務所に二人だけでいる時に限られ、控訴人自身、前記(一)の(6)のような理由から被控訴人乙川に抗議したことはなかったというのであるから、当時において横浜営業所の他の従業員が被控訴人乙川の右のような行為を目撃したこともなく、また、控訴人から苦情を聞いたこともない(原審証人出頭)からといって、控訴人の右供述の信用性が失われるものではない。

(2) 右のような点に加え、証拠(甲一七、二一、原審における控訴人本人)によると、平成元年二月から同年五月まで被控訴人テクネットの横浜営業所に勤務していた女性従業員も、被控訴人乙川から、腰や胸に抱きつかれたり、手を握られたり、腿をなでられたり、髪を触られたり、肩を抱かれたりし、それが原因で退職した事実があることが認められること(なお、被控訴人乙川はこれについても否定し(丁五)、被控訴人テクネットの当時の社長もそのような事実は聞いていない(丙六)というが、いずれも採用し難い。)をも併せ考えると、右(一)の認定に反する被控訴人乙川の前記供述ないし記載部分は採用することができず、他に、前記(一)の認定を左右するに足りる証拠はない。

2  第五の事実の存否について

(一) 原審及び当審における控訴人本人尋問の結果並びに控訴人作成の陳述書(甲一二)中には、控訴人主張に係る第五の事実に関し、次のような内容の供述ないし記載部分がある。すなわち、

「 平成三年二月一九日、マスコミの取材が終わった後、午前一一時五〇分ころ、事務所において控訴人が自分の机の前に立っていると、被控訴人乙川がいきなり後ろから抱きついてきた。同人はしばらくじっとしていたが、『甲野さんを一度抱きしめたかった。甲野さんはかわいいから。』などと言いながら、控訴人の首筋に唇を押し付けてきた。控訴人は心臓が凍るような思いがし、身体が固くなってしまって何もできなかった。被控訴人乙川は、控訴人の首筋に唇を何度も押し付け、控訴人が着ていた作業着の中に手を入れ、ブラウスの上から胸を、ズボンの上から腰を、それぞれ触ったり、控訴人の前に回りこんでキスしようとし、顔に唇を何度も押し付け、顎を無理やりつかんでキスした上、舌を口の中に入れたり、腰を控訴人の身体に密着させたまま上下に動かし、指を控訴人の股間に入れてズボンの上から下腹部を触るなどした。控訴人は、これに対し、腕を胸の前で堅く組んだり、肘を張ったり、顔を背けたり、手を払いのけようとしたが、被控訴人乙川は、払いのけようとする控訴人の手を乱暴に強い力で振り払ったり、控訴人の防御の姿勢に合わせて、前後に回るなどし、執拗に右行為を続けた。控訴人は、ただひたすら早く止めて欲しいと思い、相手を余計にあおり立てることにならないように、できるだけ平静な態度を装い、やっとの思いで『お昼過ぎちゃいますよ。』と言うと、被控訴人乙川は、控訴人から離れ、『ああ、気持ちよかった。いい子を抱くと気持ちがいい。やられた方はとんでもないってか。こんなことしたら、甲野さん泣いちゃうかと思った。仕事辞めないでね。』と言い、自分の机に戻って行った。これは、午前一一時五〇分ころから午後零時一〇分くらいまでの約二〇分間のことであった。」(以下「本件控訴人供述」という。)

これに対し、原審における被控訴人乙川本人尋問の結果及び同人作成の陳述書(丁三)中には、次のような内容の供述ないし記載部分がある。すなわち、

「被控訴人乙川は、同日午後零時過ぎころ、自分が中心になって開発してきた製品であるナチュライトに関するマスコミの取材が終了してほっとすると同時に、これにより受注が更に増加して積年の悲願であった売上収支の赤字からの脱却が達成されることへの期待と喜びから、気分が極めて高揚し、事務所内を手を叩きながら行ったり来たりするなどしていたところ、たまたま、最後まで同所で共に取材に対応した控訴人が自分の机に向かって椅子に座り工程表等を眺めていたのに気付き、その喜びを二人で分かち合おうとして、左横から右手を控訴人の左肩にかけ、控訴人が立ち上がり、被控訴人乙川の方を向いたところを、思わず、無言で両手を控訴人の背中に回して控訴人の肩を抱きしめてしまったが、控訴人から、『私はいつもおじさんに好かれるの。私は会社を辞めませんからね。』と言われたため、驚いて控訴人から離れた。これはほとんど瞬間的なものであった。」(以下「本件乙川供述」という。)

(二) 第五の事実に関する右両供述のいずれを信用すべきかを判断するに当たり、まず、第五の事実があったとされる平成三年二月一九日当日及びその後の状況、経緯等について検討する。

証拠(甲一二、甲一六の二、丙三、丁三、四、原審証人出頭、原審における被控訴人乙川本人及び被控訴人テクネット代表者、原審及び当審における控訴人本人)によると、以下の事実を認めることができ、これを覆すに足りる証拠はない。

(1) 平成三年二月一九日当日は、被控訴人テクネット横浜営業所の事務所において午前九時ころからナチュライトに関するテレビ番組の取材が行われ、当初は被控訴人乙川、神谷及び控訴人の三人で、途中からは神谷が所用で外出したため被控訴人乙川及び控訴人の二人で、取材班に対応した(他の従業員は、施工等のため外出していた。)。右取材班は、まず、事務所のあるビルの屋上に設置されたナチュライトを撮影した後、事務所において被控訴人乙川にインタビューを行い、午前一一時三〇分ころ引き上げて行った。その後、事務所には控訴人と被控訴人乙川の二人が残った(その直後、本件控訴人供述又は本件乙川供述のとおりの事実があったとされる。)。

(2) 被控訴人乙川は、一二時少し過ぎにコンピュータの端末を操作してから自分の机に戻り、その後、事務所のあるビルの一階にあるコンビニエンスストアに昼食を買いに行き、戻ってから、昼食を取りつつコンピュータの端末に向い、営業成績の積算を始めた。控訴人も、ふだんと同様に、自分の席で持参した弁当を食べた。この間も、事務所内には、控訴人と被控訴人乙川のほかは誰もいなかった。

(3) 控訴人は、その後、何も考えることができなくなったが、何事もなかったように平然と振る舞っている被控訴人乙川と同室に居続けることに耐えられなくなって、午後二時ころからサービスセンターに行き、一人でどうしようかと考えたりして、ずっとそこにおり、午後五時ころ一旦事務所に戻って着替えと荷物を取り、帰宅しようとも思ったが、このままではとても帰れないとの思いもあって、同僚に相談してみようと考え、再びサービスセンターに戻って一人で漠然と皆の帰りを待っていた。午後七時ころ、立花、出頭及び林が出先からサービスセンターに戻ってきたので、控訴人は、同人らに、被控訴人乙川の先刻の行為について説明しようとしたが、約一時間三〇分かかってもうまく言葉で説明できず、断片的に「部長に変なことされた。」「もう会社にいられないかもしれない。」「でも、会社にいたい。」などと話したにとどまった。その後、控訴人は、被控訴人乙川からされたことを身振りで示そうとし、立花に立っていてもらい、同人に後ろから抱きつく格好をしたが、その直後、泣き出してしまった。出頭らには、被控訴人乙川の行為の具体的内容の詳細は分からなかったけれども、被控訴人乙川が控訴人に触って嫌がらせのようなことをしたのではないかと半信半疑ながら聞いており、また、控訴人の身振りを見て、被控訴人乙川が後ろから控訴人に抱きついたことが分かり、控訴人が心理的に深刻なショックを受けたことを理解した。控訴人及び出頭らは、同日午後一〇時半ころまでサービスセンターにいて、今後どうしたらいいかということについて話をした。

(4) 控訴人は、被控訴人乙川と同室で仕事をする気持ちにはなれず、翌二月二〇日(水曜日)から二二日(金曜日)までの三日間、風邪を引いたと称して休暇を取り、出社しなかったが、いずれの日も、夕方からサービスセンターに行って、立花や出頭と話をし、さらに、同人らに勧められて、もと横浜営業所に勤務していて当時本社に在勤中の菅野に電話で相談した。控訴人は、第三者の立会いの下で被控訴人乙川と話合いをしたいと希望したが、菅野からは、「部長の方には僕からそういうことをしないように言っておくから、甲野さんもそれでおさめてもらえないか。」と言われ、控訴人としてはこれに納得できず、会社を辞めたいとも言った。

(5) 菅野が控訴人の話を聞いて、被控訴人乙川に会い、控訴人が怒っていること及び会社を辞めたいと言っていることを伝えた結果、被控訴人乙川は控訴人に謝ることになった。そして、同月二二日、事務所において、神谷立会いの下に、被控訴人乙川が「大変ショックを与えたようで申し訳なかった。」と述べて控訴人に謝罪し、控訴人は会社を辞めないで勤務を続ける旨述べた(ただし、被控訴人乙川は、控訴人に対してした行為の内容を明示して謝罪したものではなかった。)。

(6) その後、控訴人は勤務を再開したが、同年三月一四日、被控訴人テクネットの本社に赴き、社長の山下に面会を求め、被控訴人乙川が控訴人にわいせつな行為をした旨を記載した書面二通を手渡し、一時間以上にわたり山下に事情を話した。右各書面はいずれも、山下に対し、控訴人が被控訴人乙川からわいせつな行為をされた事実を訴えるとともに、社長として適切な措置を採ることを求める内容となっており、一通は同年二月二四日付けのもので、被控訴人乙川の行為については、「乙川部長が私にわいせつな行為をしかけてきたのです。とっさに私は機電事業部の存亡の如何が今の自分の行動にかかっていると考え、その数十分に及び破廉恥極まりない行為に耐えました。」と記載されていた。また、他の一通は同年三月一三日付けのもので、被控訴人の行為について、「自分を犯そうとした男と同じ部屋で2人きりで仕事をするなどということにはとても耐えられません。(中略)耐えられないんです。あの男の腕を思い出すと。首すじを這った唇の感触が、耳にかかったなまあたたかい吐息が、私から平静さを奪っていきます。」と記載されていた。山下は、控訴人に被控訴人乙川の行為の内容を尋ねたが、具体的な説明はなかった。山下は、被控訴人乙川から事情を聞いた上で、同人に厳重に注意し、誠意をもって謝罪させようと考え、その旨を控訴人に伝えた。

(7) 山下は、右(6)の面談の翌日である同年三月一五日、被控訴人乙川を本社に呼び出して事情を聴取したが、その際、後にしこりが残るといけないと思い、被控訴人乙川には右(6)の二通の書面は示さなかった。同人は、「すみません、弁解はしません。しかし、一切悪いことはしていない。」「テレビの取材を受け、取材後にうれしくなって思わず甲野さんの肩を抱いただけで、それ以上のことはない。」と述べ、自己の行為の内容についてそれ以上のことは述べなかった。山下としては、控訴人及び被控訴人乙川の両名の言い分が食い違う以上、右両名しかいない場所で起きたことについて、被控訴人乙川が具体的に何をしたのかを確定することはできないが、女性社員が社長に直訴せざるを得ないような何かがあったことは間違いないと思い、被控訴人乙川に対し厳重に注意した上、誠意をもって控訴人に謝罪するよう命じた。そこで、被控訴人乙川は、その翌々日ころ、事務所において、神谷及び控訴人の前で「すいませんでした。申し訳なかった。」と述べて、謝罪した(しかし、具体的にどのような行為を認めて謝罪したのかは明らかではなかった。)。

(8) その後、山下は、人事を担当している本社の女性社員から、控訴人が被控訴人乙川の謝罪の仕方に不満を持っているとの話を聞いたので、同年四月一一月、会議のため本社を訪れた被控訴人乙川に対し、きちんと謝罪したのか問いただすとともに、もっと真剣に考えさせようと思って、前記(6)の二通の書面を見せたところ、被控訴人は、血相を変えて怒り出して、「こんなひどいことは一切してません。」と言って、その内容を強く否定した。しかし、山下は、再度誠意をもって謝罪するよう被控訴人乙川に指示し、翌一二日の朝、被控訴人乙川は、横浜営業所において、控訴人を含む従業員の前で、前日再度社長から譴責を受けたこと、大変迷惑をかけたことを述べて謝罪した。

(9) 控訴人は、同年七月二三日、被控訴人清水建設の被控訴人テクネットに対する監査が実施された機会に、被控訴人乙川に対し退職届を提出し、その際、被控訴人乙川のわいせつ行為が退職の理由であると述べた。

(三) 右認定事実によると、控訴人は、第五の事実があったとされる日の午後二時ころ以降、サービスセンターにおり、午後七時ころ出先から戻ってきた同僚に被控訴人乙川からされたことを説明しようとし、同僚も長時間にわたりこれに付き合い、結局、言葉でうまく説明できず、身振りで説明しようとして泣き出したものであり、このような控訴人の当日の行動だけをとってみても、控訴人が心理的に相当深刻なショックを受け、かつ、被控訴人乙川からされた行為の内容を同僚に伝えて相談しようとしていたことが明らかである以上、その後も、翌日から三日間会社を休み、勤務時間終了後にサービスセンターに出向いて同僚に相談し、被控訴人乙川から同年二月二二日に謝罪を受けた後も、被控訴人テクネットの本社を訪れて社長に書面を渡して直訴するという尋常でない行動をとっているのであり、控訴人のこれらの一連の行動に照らすと、同月一九日には、本件乙川供述のように、被控訴人乙川が瞬間的にないしは数十秒の間控訴人の背中に両手を回して抱きしめたに過ぎなかったものとは到底考え難く、控訴人の右行動は、本件控訴人供述を裏付けるものとみるのが相当である(横浜営業所における同日までの控訴人と被控訴人乙川との関係に照らしても、同日以降、控訴人が被控訴人乙川に関しことさら虚偽の申立てをしたものと疑うべき事情は見当たらない。)。

なお、前記(二)の(2)の認定のとおり、第五の事実あったとされる時の直後に、控訴人と被控訴人乙川とは、ふだんと変わらず事務所内で昼食を取っているのであるが、控訴人は自分の席で持参した弁当を食べ、被控訴人乙川はコンビニエンスストアで買ってきた昼食をコンピュータの端末に向かって食べたというに過ぎず、「二人で共に昼食を取った」というわけではないし、前記(二)の(3)の認定のとおり、控訴人は、事件の直後は何も考えることができず、午後二時ころになって被控訴人乙川と同じ部屋にいることが耐えられなくなってサービスセンターに行ったというのであるから、事件直後に控訴人が右のような行動をとったからといって、それは控訴人が被控訴人乙川の行為によって深刻なショックを受けたことを否定すべき事情には当たらないというべきである。

さらに、前記(二)の(3)の認定のとおり、控訴人は同僚に対しては被控訴人乙川の行為を具体的に説明していないが、仮に本件控訴人供述のとおりの行為が行われたとすれば、その内容を被害者である女性から男性の同僚に具体的に説明することには精神的に抵抗があり得ると思われる上、控訴人は当該行為によって心理的に深刻なショックを受けており、何も考えることができなくなっていたというのであるから、同僚に対してその内容を具体的に説明できなかったとしても必ずしも不自然とはいえないし、控訴人が心理的に深刻なショックを受けたこと自体は同僚にも伝わっているのであるから、控訴人が被控訴人乙川の当該行為全体を具体的に説明していないことをもって、本件控訴人供述の信用性を否定すべきではない。

この点は、前記(二)の(6)の認定の山下に対する説明に関しても同様であり、控訴人は、山下に対し、被控訴人乙川から数十分に及ぶわいせつ行為をされたこと、首筋に唇を押し付けられたこと等が記載された書面を交付している上、山下も、控訴人の説明を聞き、被控訴人乙川から事情を聞いた上で、同人に厳重に注意し、誠意をもって謝罪をさせようと考えたというのであって、控訴人が山下に対して被控訴人乙川の具体的な行為の全容を説明していないからといって、そのことは本件控訴人供述の信用性を疑うべき事情には当たらない。

また、原審における証人出頭及び被控訴人乙川本人の供述並びに同人作成の陳述書(丁三。なお、立花康一作成の陳述書である丁四にも、その一部を肯定する伝聞供述がある。)中には、平成三年二月二二日に被控訴人乙川が控訴人に対して謝罪した後、控訴人は、出頭に「わあい、わあい、やったあ、やったあ。」「よし、これから帰って祝杯だ。」と言って帰宅した事実があり、その後控訴人は元どおり勤務に就いたから、この件は被控訴人乙川が謝罪したことで一応一件落着したものであると考えていた旨の部分がある。しかしながら、原審における控訴人本人尋問の結果及び同人作成の陳述書(甲一二)には、控訴人は、同日、被控訴人乙川に会うまで非常に緊張していたので、会った後はその緊張が一気に解けたこと、とりあえず被控訴人乙川が謝罪したのだから気持ちを切り替えて翌週から仕事をしようと思ったこと、ただ、控訴人は、右謝罪が真に反省に基づくものか否かについて釈然としない気持ちでいたところ、その後、被控訴人清水建設主催のイベントにナチュライトを出展した際の被控訴人乙川の態度や、再びマスコミ取材の予定が入った際の被控訴人乙川の高揚ぶりなどを目にするにつけ、被控訴人乙川が同月一九日にした行為について、やはり誰かにいさめてもらわなくてはならないと考え、山下に面会を求めることにしたこと、以上のような内容の記載があり、これによると、控訴人は、同月二二日の時点で被控訴人乙川の謝罪によりその受けた精神的苦痛がいやされたというものではなく、その苦痛はその後も継続しており、そのため、山下に面会を求めるに至ったものと見るのが相当であり、同月二二日に控訴人から前記のような発言がされた事実があるとしても、そのため、本件控訴人供述の信用性が揺らぐというほどの事情には当たらないというべきである。

(四) さらに、本件乙川供述の内容自体に関しても、控訴人の肩を抱きしめたという時間について「本当に瞬間的な時間だった」とする(丁三)一方、「数十秒かもしれない。」「何分とか何十分というような問題ではない。」と述べており(原審における被控訴人乙川本人)、この点において一貫していない。また、マスコミの取材が無事終わり、業績向上が期待される喜びを、部下の従業員と分かち合おうとしたというのであれば、まず、声をかけて言葉を交わした上で、例えば握手をしたり、又は肩をたたいたりするといった程度の行動を取るのが自然であると考えられるところであり、男性の営業所長が他に人のいない営業所において両手を若い女性従業員の背中に回して無言で抱きしめるという行為は、気分が極めて高揚していたとはいえ、上司と部下が仕事上の「喜びを分かち合う」行為として極めて不自然なものといわざるを得ない。しかも、仮に本件乙川供述のとおりであるとすれば、控訴人から何の脈絡もなく、突如「私はいつもおじさんに好かれるの」とか「私は会社を辞めません」というような発言があったことになり、合理的ではなく、むしろ、右のような発言があったとすれば、被控訴人乙川がただ単に控訴人を抱きしめただけではなかったことが窺われる。さらに、真に被控訴人乙川が控訴人と業績向上の喜びを分かち合おうとしたというのであれば、控訴人が被控訴人乙川の行為によって深刻なショックを受け、同人に対して怒っていることを知った際に、上司として自己の行動の真意を控訴人に伝え、その誤解を解く努力をするのが自然であると考えられるが、そのような努力がされた形跡もない。

したがって、本件乙川供述については、その供述自体にも、また、同年二月一九日以降の被控訴人乙川の行動に照らしても、不自然ないし不合理な点があるものというべきである。

(五)  次に、本件控訴人供述そのものの信用性について検討する。

本件控訴人供述によれば、控訴人は、二〇分もの間、被控訴人乙川に抱きつかれて無理やりわいせつな行為をされたのに、その間、同人を振り払って事務所外へ逃げるとか、悲鳴を上げて助けを求めるなどの行動に出なかったことになり、このこと自体がその供述に係るわいせつな行為の被害者として通常あり得ない不自然な対応であるとすれば、控訴人がそのような対応をしたことについて合理的な説明が必要となる。

しかし、まず、本件控訴人供述によると、控訴人は、「腕を胸の前で堅く組んだり、肘を張ったり、顔を背けたり、手を払いのけようとした」というのであって、何の抵抗も示さなかったというわけではないし、これに対し、「被控訴人乙川は、払いのけようとする控訴人の手を乱暴に強い力で振り払ったり、控訴人の防御の姿勢に合わせて、前後に回るなどし、執拗に右行為を続けた」というのであって、控訴人の対応は必ずしも不自然なものとはいい難い。

さらに、証拠(甲一三、甲一五の二)によると、米国における強姦被害者の対処行動に関する研究によれば、強姦の脅迫を受け、又は強姦される時点において、逃げたり、声を上げることによって強姦を防ごうとする直接的な行動(身体的抵抗)をとる者は被害者のうちの一部であり、身体的又は心理的麻痺状態に陥る者、どうすれば安全に逃げられるか又は加害者をどうやって落ち着かせようかという選択可能な対応方法について考えを巡らす(認識的判断)にとどまる者、その状況から逃れるために加害者と会話を続けようとしたり、加害者の気持ちを変えるための説得をしよう(言語的戦略)とする者があると言われ、逃げたり声を上げたりすることが一般的な対応であるとは限らないと言われていること、したがって、強姦のような重大な性的自由の侵害の被害者であっても、すべての者が逃げ出そうとしたり悲鳴を上げるという態様の身体的抵抗をするとは限らないこと、強制わいせつ行為の被害者についても程度の差はあれ同様に考えることができること、特に、職場における性的自由の侵害行為の場合には、職場での上下関係(上司と部下の関係)による抑圧や、同僚との友好的関係を保つための抑圧が働き、これが、被害者が必ずしも身体的抵抗という手段を採らない要因として働くことが認められる。したがって、本件において、控訴人が事務所外へ逃げたり、悲鳴を上げて助けを求めなかったからといって、直ちに本件控訴人供述の内容が不自然であると断定することはできない。

右のような認識を前提にして、控訴人が、事務所外へ逃げるとか、悲鳴を上げて助けを求めるなどの行動に出なかった理由として供述しているところについてみても、控訴人は、事務所の外は広い通りで車の通行量が多いので、大声を上げても誰も聞きつけてはくれない、大声を出そうと思った記憶はない、逃げようと思って抵抗しても逃げられたかどうか分からないし、下手に騒いで余計に被控訴人乙川をあおり立てることになっても困る、もし騒いで外部の人が入って来たら事が公になってしまう、そうなれば会社にいられなくなってしまうかもしれない、会社にいるためにはとにかくこのまま切り抜けなければならないと思った、被控訴人乙川には入社以来世話になってきたし、今までの人間関係を壊したくない、被控訴人乙川に対する尊敬の気持ち及び同人には恩を感じていたため、同人を突き飛ばしたりはできなかった等の供述をしているところ(甲一二、原審及び当審における控訴人本人)、これらの供述は、上司である被控訴人乙川の突然の行為によって混乱している控訴人の内心が具体的に述べられたものであって、そのような状況下での被害者たる女性の思考として不自然又は不合理なものと断定すべきものでもない。

また、わいせつな行為をされている間に「事が公になってしまうと会社にいられなくなってしまうかもしれない」と考え、騒ぎ立てたり逃げ出したりはしなかったということと、前記(二)の(3)の認定のとおり、その当日の夕方、被控訴人乙川からわいせつな行為をされたことを同僚に説明しようとしたこととは、前者はまさに被害に遭っている最中に控訴人が考えた内容であり、後者は事後に被害者として加害者の謝罪など適切な措置を採ってもらおうとしてとった行動であって、両者が矛盾するとはいえず、これをもって、本件控訴人供述自体の信用性が損なわれるものとみるべきではない。

(六)  第五の事実の発生以前においても、被控訴人乙川が、被控訴人テクネットの横浜営業所の女性従業員に対して前記1の(二)の(2)のような行為を行っていたのみならず、更に、控訴人に対して前記1の(一)の(4)ないし(6)のような行為(第一ないし第三の事実に係る各行為)に及んでいたことは、前記認定のとおりであるところ、これらの事実は、被控訴人乙川の職場におけるこの種の行動の傾向を示すものであって、本件控訴人供述の供述内容の真実性を補強する事情であるということができる。

(七)  右(二)ないし(六)において判示したところを総合すると、第五の事実に関しては、本件乙川供述のうち本件控訴人供述に反する部分は採用することができず、前記(一)の控訴人本人供述のとおりの行為が被控訴人乙川によって行われたものと認定するのが相当であり、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。

3  第六の事実の存否及び控訴人の退職に至るまでの経緯について

(一) 第五の事実があった日以降の経緯に関しては、前記2の(二)の認定のとおりであるが、さらに、控訴人が被控訴人テクネットを退職するに至った経緯に関して、右認定事実及び証拠(甲一二、丙三、丁三、四、原審及び当審における控訴人本人尋問の結果、原審証人出頭、原審における被控訴人テクネット代表者)を総合すると、以下の事実が認められる。

(1) 控訴人は、平成三年三月一四日、被控訴人テクネットの社長山下に面会した際、被控訴人乙川を横浜営業所から異動させてほしいと申し入れたが、山下からは断られ、逆に、控訴人が本社に異動しないかという提案を受けたが、控訴人は、横浜営業所でナチュライトにかかわる仕事がしたかったので、これを断った。

(2) その後も、控訴人は横浜営業所で勤務を続けていたが、被控訴人乙川からは三回にわたり謝罪を受けたものの、いずれも被控訴人乙川が控訴人に対してした行為の内容を明らかにした上で謝罪したというものではなく、また、被控訴人乙川がこれ以外に被控訴人テクネットないし被控訴人清水建設から懲戒処分を受けることもなかったため、控訴人としては、自己に対してわいせつな行為をした被控訴人乙川がそのまま放置されていると感じていた上、そのようなわいせつな行為をした当事者と同じ職場で働くことに苦痛を感じていた。そのため、控訴人は事務所で被控訴人乙川と二人きりになるのを避けて、なるべくサービスセンターで勤務するようになった。他方、被控訴人乙川も、仕事に関して控訴人に必要最低限のことしか言わなくなり、それまで控訴人に頼んでいた少額の支払の帳簿付け、コピー取り、ワープロでの簡単な文書作成、請求書の作成等の事務は被控訴人乙川が自分でするようになった。両者の関係がこのようなものとなったことに対し、控訴人は、横浜営業所の他の従業員から「部長と仲良くしてやってよ。」などと言われたため、控訴人としては、むしろ控訴人の側に改めるべき点があるように言われたものと感じ、ますます職場に居づらくなった。

(3) 控訴人は、平成三年三月一四日に被控訴人テクネットの社長山下に直訴して以降は、被控訴人テクネットに対して被控訴人乙川の配置転換等の具体的な措置を採るよう申し入れることもなく、右(2)のような状態で勤務を続けていたが、同年七月二三日、被控訴人清水建設による監査が行われたのを機に、被控訴人乙川がわいせつ行為を働いたことが監査の耳に入れば何とかなるのではないかと思い、被控訴人乙川に対し退職届を提出し、その際、被控訴人乙川のわいせつ行為が退職の理由であると述べた。

(4) 控訴人はその後「神奈川女性センター」に相談したところ、同センターの仲介で控訴人が復職する話が進められ、いったんは控訴人も復職を希望し、被控訴人テクネットもこれを受け入れることになったが、控訴人は結局退職を希望し、同年八月三一日付けで被控訴人テクネットを退職した。

(二) なお、右認定に関し、控訴人は、被控訴人乙川が、社長の叱責を受けた後、控訴人に仕事をさせないようにするなどの嫌がらせを行ったと主張し、原審における控訴人本人尋問の結果及び控訴人作成の陳述書(甲一二)中には、これに沿う内容の供述ないし記載部分があるが、右(一)の(2)において認定した事実以外に、具体的に控訴人が横浜営業所において職務分担を変更されたり、仕事を与えられなくなったというような事実を認めるに足りる証拠はないし、前記(一)の(2)の状況についても、証拠(丁三、原審証人出頭、原審における控訴人本人、被控訴人乙川本人)によると、右のような仕事はそれまで控訴人が頼まれていたのが、控訴人に頼まなくなっただけであって、「やらなきゃやらないでいい」という感じに変わったものであること、控訴人が色々な仕事を頼まれなくなったのは、控訴人がサービスセンターにいることの方が長くなり、以前ほど事務所で仕事をしなくなったことも一因であること、サービスセンターにおける仕事については問題はなかったことが認められるから、前記の控訴人本人の供述を直ちに採用することはできず、他に控訴人の前記主張を認めるに足りる証拠はない。

(三) 前記(一)の認定事実によると、控訴人は、平成三年二月一九日以降、自己に対してわいせつな行為をした当事者である被控訴人乙川と同じ職場で働くことに苦痛を感じ、同人を避けるようになり、他の従業員との関係も良好なものでなくなり、職場に居づらくなって、結局、被控訴人テクネットを退職するに至ったものであって、これは、第五の事実に係る被控訴人乙川の行為と相当因果関係を有するものというべきである。

4  被控訴人乙川の控訴人に対する不法行為の成否について

(一) 前記1ないし3の認定事実を前提として、被控訴人乙川の控訴人に対する行為が不法行為を構成するかどうかについて検討する。

およそ、本件のように、男性たる上司が部下の女性(相手方)に対してその望まない身体的な接触行為を行った場合において、当該行為により直ちに相手方の性的自由ないし人格権が侵害されるものとは即断し得ないが、接触行為の対象となった相手方の身体の部位、接触の態様、程度(反復性、継続性を含む。)等の接触行為の外形、接触行為の目的、相手方に与えた不快感の程度、行為の場所・時刻(他人のいないような場所・時刻かなど)、勤務中の行為か否か、行為者と相手方との職務上の地位・関係等の諸事情を総合的に考慮して、当該行為が相手方に対する性的意味を有する身体的な接触行為であって、社会通念上許容される限度を超えるものであると認められるときは、相手方の性的自由又は人格権に対する侵害に当たり、違法性を有すると解すべきである。

(二)  右判示に照らすと、まず、第五の事実に係る行為は、その外形や目的に照らし、控訴人に対する性的意味を有する身体的な接触行為であって、社会通念上許容される限度を超えるものであることは明らかであるから、優に控訴人の性的自由及び人格権を侵害した不法行為であるというべきである。

(三)  次に、第一ないし第三の事実に係る行為については、前示のとおり、接触の対象となった部位は、肩、髪及び腰であるところ、肩及び髪については、一概に接触が許されない部位とまではいえないものの、平成二年秋ころ以降、上司である被控訴人乙川が部下である控訴人が事務所で席にいる時に繰り返し触るようになり、次第にその時間が長くなったというのであって、腰の接触行為も含め、控訴人はこのような行為について抗議はしなかったものの、不快感を持ち回避の行動をとっており、しかも、同被控訴人の右行為は事務所に他の従業員がいない時に限って行われた行為であること及び後に第五の事実のような重大なわいせつ行為を行うに至った者による行為であることを考慮すると、第一ないし第三の事実に係る行為は、継続的に行われた性的意味を有する身体的な接触行為というべきであり、その態様、反復性、行為の状況、両者の職務上の関係等に照らし、社会通念上許容される限度を超えていたものとして、控訴人の性的自由及び人格権を侵害した違法な行為というべきである。

さらに、第一ないし第三の事実に係る行為と第五の事実に係る行為とは、いずれも、勤務時間中に、部下である控訴人と上司である被控訴人乙川とが事務所内で二人きりでいる際に、自席にいた控訴人に対し、被控訴人乙川が敢えて行った行為であって、控訴人の性的自由及び人格権を侵害する一連の不法行為を構成するものと解するのが相当である。

(四)  しかし、第四の事実に関しては、前記1の(一)の(7)の認定のとおり、二人で飲食した後、駅に向かって歩いている時に、「今日はどうもありがとうね。」と言って控訴人の肩に手を回して抱き寄せるようにしたというものであって、行為の外形上、感謝の意とともに親愛の情を表そうとしたものともみることができ、右第一ないし第三及び第五の事実に係る行為とは異質なものと認められる上、不快に感じた控訴人がさり気なく被控訴人乙川の手を振りほどき、同人と別れて駅に向かったという事後の経緯に照らし、執拗な行為でもなかったとみられることから、第四の事実に係る行為のみで、社会通念上許容される限度を超えるものとして控訴人に対する不法行為に当たるものと断ずることはできないし、また、右の行為は、職場外における勤務時間外の行為である(被控訴人乙川が接待のために新しい店を開拓したいと述べて控訴人を誘ったものであるとしても、被控訴人乙川及び控訴人が飲食店で飲食する行為が被控訴人テクネットの従業員としても職務になるわけではない。)という点に照らしても、これを第一ないし第三及び第五の事実に係る被控訴人乙川の行為と一連の行為とみることも相当ではない。

したがって、第四の事実に関しては、被控訴人乙川による不法行為が成立するとまではいえない。

(五) また、第六の事実に関しては、前記3において判示したとおりであって、被控訴人乙川の行為について、それ自体として控訴人に対する不法行為を構成するものと解することはできず、また、身体的接触が問題となるものでもないから、第五の事実と連続した一連の行為として評価することも相当ではない。

二  被控訴人テクネット及び被控訴人清水建設の使用者責任の成否(争点2・3)について

1  前記第二の判示事実及び証拠(乙二、乙三の一、二、乙四、乙五の一ないし六、乙六ないし八、丙三、四、八、丁三、原審における被控訴人テクネット代表者、被控訴人乙川本人、当審証人佐藤)を総合すると、次の事実が認められる。

(一) 被控訴人テクネットは、昭和六〇年五月、建物の調査・診断及び建築関連商品の開発・製造・販売を主たる業務として設立された被控訴人清水建設の一〇〇パーセント出資の子会社であるが、独立の企業として独立採算制を採り、平成三年の被控訴人テクネットの売上げに占める被控訴人清水建設との取引の割合は、約二八パーセントであった。また、被控訴人清水建設からの出向社員の人数は、社員四五名中、平成三年度末の時点で九名であり、うち役員は二名、従業員は七名であった。出向社員以外の社員の採用は、すべて同社が独自に行っており、被控訴人清水建設はこれに関与していなかった。

(二) 被控訴人清水建設と被控訴人テクネットとは、被控訴人テクネットの設立当時、「出向に関する基本覚書」(乙二)を取り交わしており、これによって、被控訴人テクネットへの出向を命ぜられた被控訴人清水建設の社員は、被控訴人清水建設の社員の身分を有したまま特別休職の形で出向し、被控訴人テクネットの業務に従事すること、出向期間中の勤務場所、勤務時間等の服務については、被控訴人テクネットの就業規則及び規定に従うこと、俸給・賞与は、被控訴人清水建設の基準・方法により被控訴人清水建設が直接支給すること、被控訴人清水建設が支給した俸給・賞与については、別途協議の上被控訴人テクネットの負担分を決定し、これを技術指導料の名目で支払うこと等が取り決められていた。ただ、実際には、被控訴人テクネットの負担分は全額であり、これが、各年度末に一括して、被控訴人テクネットから被控訴人清水建設に支払われていた。なお、被控訴人テクネットの日常の業務の遂行について、出向社員が被控訴人清水建設からの指示を受けることはなかった。

(三) 被控訴人テクネットの社員就業規則(丙八)は、別段の定めのない限り他社よりの出向社員にも準用されるものとされており、これにより、被控訴人テクネットは、出向社員に対しても、業務命令権、配転命令権及び懲戒権を有するが、出向社員に関しては、被控訴人清水建設が給与を支給していることから、減給以上の懲戒処分をするには、被控訴人清水建設との協議が必要であった。出向社員の人事評価及び給与の査定については、まず、被控訴人テクネットの社長が評価を行い、その後、被控訴人清水建設において、同社の社員や他社への出向社員との相対的な調整を行っていた。

(四) 被控訴人乙川は、昭和六二年二月以来、出向期間の定めなく被控訴人テクネットに出向し、機電事業部長兼横浜営業所長として、被控訴人テクネットの社長である山下及び中村専務による指揮監督を受ける立場にあった。

なお、ナチュライトは、被控訴人乙川が被控訴人テクネットに出向した後、同人が中心となって商品化のための開発を進めた製品であって、その製造販売は、被控訴人テクネット独自の、しかも主な業務となっていた。

2 右認定事実並びに前記第二及び前記一の各判示事実を前提として、被控訴人テクネットの使用者責任の成否(争点2)について検討すると、被控訴人乙川は、被控訴人テクネットへの在籍出向を命じられ、機電事業部長兼横浜営業所長として、被控訴人テクネットの事業を執行していた者であり、事業の執行に当たっては、被控訴人テクネットの指揮監督を受けていたというべきであるから、民法七一五条の適用上は、被控訴人テクネットの被用者に当たるものと解されるところ、前記一の4のとおりの被控訴人乙川の控訴人に対する不法行為(第四の事実係る行為は含まれない。)は、いずれも、事務所内において、営業所長である被控訴人乙川によりその部下である控訴人に対し、勤務時間内に行われ、又は開始された行為であり、控訴人の上司としての地位を利用して行われたものというべきであるから、被控訴人乙川の右不法行為は、被控訴人テクネットの事業の執行行為を契機とし、これと密接な関連を有する行為というべきである。

被控訴人テクネットは、被控訴人乙川の行為は個人的な行為で職務と何ら関係なく行われたものである旨主張するけれども、右に判示したような被控訴人乙川の行為の外形から見て、事業の執行行為を契機として、これと密接な関連を有する行為と判断すべきものである以上、そのような行為に出た動機が被控訴人乙川の個人的な満足のためのものであったとしても、そのことは右認定を左右するものではない。

したがって、前記一の4において判示したとおり、控訴人に対する不法行為を構成する被控訴人乙川の前示行為は、いずれも同人が被控訴人テクネットの事業の執行につき行ったものであるから、被控訴人テクネットは、民法七一五条に基づき、被控訴人乙川の使用者として、損害賠償責任を負うというべきである。

3 次に、被控訴人清水建設の使用者責任の成否(争点3)について検討する。

民法七一五条にいう使用関係の存否については、当該事業について使用者と被用者との間に実質上の指揮監督関係が存在するか否かを考慮して判断すべきものであるところ、前記2において判示したとおり、被控訴人乙川は被控訴人テクネットの事業の執行については被控訴人テクネットの指揮監督を受けていたものであり、前記1の認定事実によると、被控訴人乙川は、被控訴人清水建設の社員であって、被控訴人清水建設から給与の支給を受けていたものの、被控訴人清水建設からは出向期間の定めなく被控訴人テクネットに出向し、その間休職を命ぜられており、被控訴人清水建設から日常の業務の遂行について指示を受けることなく、被控訴人テクネットが被控訴人乙川に対する業務命令権及び配転命令権を有していたということができる。さらに、被控訴人テクネットは、被控訴人清水建設の一〇〇パーセント出資の子会社であるとはいえ、独立採算制が採られ、被控訴人清水建設からの出向社員の給与に相当する金額は技術指導料の名目で被控訴人清水建設に支払われていて結局被控訴人テクネットの負担に帰しており、その売上げに占める被控訴人清水建設との取引の割合や全社員中の出向社員の比率からみても、被控訴人清水建設とは独立した別個の企業として経営されていたものというべきであって、被控訴人テクネットの事業が被控訴人清水建設の事業と実質的に同一のものあるいはその一部門に属するものであったとみることもできないし、特に、被控訴人乙川が携わっていたナチュライトの製造販売は、被控訴人テクネット独自の業務として行われていたものである。

右のような事情の下では、被控訴人清水建設が清水建設乙川に対する実質上の指揮監督関係を有していたと認めることはできない。

なお、前記1認定事実によれば、出向社員に対する人事評価及び給与の査定は最終的には雇用契約上の使用者である被控訴人清水建設によって行われ、また、被控訴人テクネットは出向社員に対する減給以上の懲戒処分を単独で行う権限を有していなかったのであるが、これは、被控訴人テクネットが出向社員に対して指揮監督を行うことを前提として、第一次的には被控訴人テクネットが人事評価、査定等を行うこととし、出向元である被控訴人清水建設にその調整を行う権限が留保されているものとみるべきであって、右のように定められていることから直ちに、被控訴人清水建設が出向社員に対する実質上の指揮監督関係を有していたものということはできない。

右に判示したところによれば、民法七一五条の適用の上では、被控訴人乙川が被控訴人清水建設の被用者であったということはできず、被控訴人清水建設は、被控訴人乙川による前記一の4判示の不法行為について、使用者責任を負うものではないというべきである。

三  被控訴人テクネットないし被控訴人清水建設による不法行為の成否について(争点4)

1  被控訴人テクネットの民法七〇九条に基づく不法行為責任の成否について

(一)  控訴人は、被控訴人乙川によるセクシュアル・ハラスメントによって、控訴人が人格的尊厳を冒され、労務提供に重大な支障を来す事由が発生したことを被控訴人テクネットにおいて知ったのであるから、同被控訴人としては、控訴人の労務提供に支障がないように労働環境を改善するため、被控訴人乙川の配置転換、従業員に対する事実の公表等の適切な措置を採るべき注意義務があったのに、これを怠ったため、控訴人を退職せざるを得ない状況に至らせ、控訴人の働く権利を侵害したものであると主張するので、以下検討する。

控訴人の右の主張は、使用者において、上司が職場で部下に対していわゆるセクシュアル・ハラスメントに係る不法行為を行ったため、部下の労務の提供に重大な支障を来していたことを知りながら、当該上司の配置転換等の藤堂環境の改善のための措置を講じなかったことを問題とするものであるから、使用者がかかる措置を講ずる上で、当該不法行為及び右の支障に係る事実を確定できるだけの確実な証拠を有していることが前提になるものといわざるを得ない。

ところが、本件においては、前示のとおり、被控訴人乙川による不法行為に関しては、そもそも本件控訴人供述と本件乙川供述とが大きく食い違っているため、右不法行為に係る事実の確定は使用者たる被控訴人テクネットにとって極めて困難であったというべきであるし、前記一の2の(二)の(6)のとおり控訴人の直訴を受けた山下としても、控訴人と被控訴人乙川との間において右両名しかいない場所で起きた第五の事実に関しては、差しあたって右両名から事情を聞く以外には、事実を確定すべき手段を持っていなかったとみるべきである(しかも、控訴人自身も、山下に対し被控訴人乙川の具体的な行為の全容を説明したわけではない。また、仮に、山下において、前記一の2の(二)の(7)、(8)のとおり被控訴人乙川から事情を聞いた後、更に控訴人からの聴取や横浜営業所の他の従業員等からの事情聴取を行うなどの措置を採ったとしても、それによって、当時において第五の事実に関して事実を確定できるだけの確実な証拠を得ることができたとみることもできない。)。

さらに、前記一の3の(一)の認定のとおり、控訴人は、山下に対し、被控訴人乙川を横浜営業所から異動させてほしいと申し入れたものの、断られ、かつ、山下からの控訴人自身の本社への異動の提案も断っている。また、山下としては、控訴人の訴えを聞いて、被控訴人乙川から二回にわたり事情を聴取し、同人に厳重注意した上、控訴人に対して誠意をもって謝罪するように命じたものであり、その後、山下に対しては、控訴人から苦情の申立てはされていない。

これらの事情に照らすと、本件においては、被控訴人テクネットは、被控訴人乙川の不法行為によって、当時控訴人の労務提供に重大な支障を来す事由が発生していたことを知っていたものとはいえないし、右不法行為及び右の支障に係る事実を確定できるだけの確実な証拠を有していたともいえないから、その余の点につき判断するまでもなく、控訴人の前記主張は採用することができない。

(二) 次に、被控訴人テクネットが第五の事実を知りながら、適切な措置を採らなかったため、被控訴人テクネット内に、控訴人の方に何らかの問題があったのではないかという憶測を生じさせ、控訴人は、自分の所属する職場の秩序を破壊した者との評価を下された上、被控訴人テクネットを退職せざるを得なくなり、その名誉を著しく毀損されたとも主張する。

しかしながら、右(一)において判示したとおり、第五の事実に関しては、控訴人と被控訴人乙川の言い分が対立し、被控訴人テクネットとしては事実を確定することは極めて困難であったというほかないのであるから、右の控訴人の主張はその前提を欠くものであり、その余の点につき判断するまでもなく、理由がないというべきである。

2  被控訴人清水建設自身の民法七〇九条に基づく不法行為責任について

被控訴人テクネットについて不法行為の成立が認められないことは右1において判示したとおりであるが、これに加え、前示二のとおり、被控訴人テクネットは被控訴人清水建設とは独立した別個の企業として経営されていたものである上、被控訴人清水建設において、被控訴人テクネットとは独自に被控訴人乙川の行為に係る事実を確定し得たとみるべき事情もないから、被控訴人清水建設についても、控訴人に対し民法七〇九条に基づく不法行為責任を負うものとはいえず、控訴人の名誉を毀損したとする点についても、その主張は理由がないことが明らかであるから、その余の点につき検討するまでもなく、控訴人の被控訴人清水建設に対する民法七〇九条に基づく請求は理由がない。

四  損害額について

前記一及び二において判示したとおりであるから、被控訴人乙川は民法七〇九条に基づき、被控訴人テクネットは民法七一五条に基づき、被控訴人乙川の不法行為によって控訴人が被った損害を賠償すべき義務を負うものであるところ、その賠償額としては、以下の1、2のとおり合計二七五万円が相当である。

1  慰謝料

本件における前示の諸事情、特に、控訴人は、職場において上司である被控訴人乙川から継続的に第一ないし第三の事実のように肩、髪及び腰に触られた上、第五の事実のように、わいせつな行為をされ、そのことによって人格権及び性的自由に対する重大な侵害を受け、そのため、結局、被控訴人テクネットを退職するに至ったものであることを考慮すると、控訴人が被控訴人乙川の不法行為によって被った精神的苦痛を慰謝するための慰謝料としては、二五〇万円が相当である。

2  弁護士費用

本件事案の内容、審理経過、右慰謝料額等を考慮すると、被控訴人乙川の不法行為と相当因果関係を有する弁護士費用としては、二五万円が相当である。

五  謝罪広告に係る請求について

控訴人は、被控訴人清水建設及び被控訴人テクネットに対し、民法七〇九条、七二三条に基づき、原判決別紙謝罪広告文案記載のとおりの謝罪広告をすることを請求しているところ、右両者について民法七〇九条の不法行為の成立が認められないことは前記三において判示したとおりであるから、これを前提とする謝罪広告に係る請求は、その余の点につい判断するまでもなく、理由がない。

第四  結論

以上の次第であるから、控訴人の本訴請求は、被控訴人テクネット及び被控訴人乙川に対し、各自二七五万円及びこれに対する不法行為の日以降の日である平成四年八月七日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があり、被控訴人テクネット及び被控訴人乙川に対するその余の請求並びに被控訴人清水建設に対する請求はいずれも理由がないから、原判決中被控訴人テクネット及び被控訴人乙川に関する部分を右のとおり変更し、被控訴人清水建設に対する控訴を棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法九六条、九五条、八九条、九二条、九三条を、仮執行の宣言につき同法一九六条一項をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官村田長生 裁判官後藤博 裁判長裁判官加藤和夫は、転補のため署名捺印することができない。裁判官村田長生)

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